だれもがだだもれでいられれば。おまけのような迷い。

トートバッグを作ることが好きだ。

特に、バッグの口の部分で表布と裏布が合わさり、それを縫い合わせて完成する部分が何とも言えず好き。

だからバッグを作るときは、必ず裏布をつける。

一枚布では口の縫い合わせがないから魅力がない。

折り返しただけでは意味がない。

ひたすらに、二枚仕立てのバッグを作る。

 

木が何とも言えず好きだ。

枝の複雑さ、生命力、質感。

葉のみずみずしさ。

落ち込んでいいたときに、公園で拾った枝へを見つけて手にした時の充実した、満たされた感覚が忘れられない。

あれは、確かに魂に触れた。

魂に触れるというのは、静かな暖かいものなのだな。

 

我が子は2歳にして、空気を読み、我慢をし、自分を抑えることを知っている。

大人びた2歳児だ。

頼もしくもあり、心配でもある。

 友人の息子さんは、娘と同じ歳だが我慢を知らないように見える。

友人曰く「思考だだ漏れ」状態。

抑制が効かない状態は親としては手がかかって、友人の苦労は想像するに余りあるけれど、

「思考だだ漏れ」とはなんという自由だろう!

友人が少し離れている間に、きれいな蜘蛛の巣を見つけ「触りたい!」とたまにしか合わない私相手に泣いて訴える。

そのまま生きられればいいのにね。

そのままでいてほしい、とたまに会うだけの私は秘かに願ったりしている。

 

 

 

 

自分自身にすべての時間を使うことが自分がやりたいことになったとき、

子どもが多様性を受け入れる社会を作ることに自分を役立てたい。

多様性、と言われて久しいが郊外の住宅街で過ごす日常生活で多様性を目にすることは少ない。

むしろ、その真逆に直面することの方が多い。

子どもと暮らす日常生活はなんと狭いものなのだろう。

生まれて間もない乳幼児ならば、全てが真新しく新鮮で刺激的だろうが、数年もたてばこの狭い生活環境が息苦しくなる子も出てきておかしくない。

世界は本当に広いのに。

 

子どもの世界が狭くなってしまう要因に行動範囲の限界があるのだろう。

徒歩や自転車で行ける距離には限界がある。

 

たとえ隣の県で、広い視野を持つことができる子ども向けのワークショップや多様性を感じられる居場所ができたとしても、生活圏にない場合はほとんど意味がない。

都会に住むことの利点は、こういうところにあるのだろう。

 

こういうジレンマを埋めることができることに時間を使いたい。

これには勇気と信頼が必要だな。

まずは自分にできることから。

 

 

さて、これからのことを決めて歩き出したはずなのに、

新しい技術を得ることに挫折しそうである。

楽器をやってきて、技術を得るということがいかに難しいことかわかっているのに。

 

見通しがたたないことがまた原因かもしれない。

 

この努力をして、本当に理想の仕事に近づくのだろうか?

やりたくないことはしない、自分に正直に生きると決めた。

 

やるしかないのだよ。

 

 

迷ったり、頑張ってみたり、満たされたり、憧れたり。

今日の私のだだ洩れ。