ヴィジョンがない、目標がない、指導力がない。3ない教室。
発表会を終えて客観的に生徒さんたちの演奏を聴いてショックだった。
正直なところいわゆる「上手な子」が少ない。
なんとか弾ききっているけど、想いが伝わる感動的な演奏がない。
生き生きとした演奏が少ない。
これは自分のレッスンに問題があると認めざるを得ない!
これまでレッスンを成り立たせるのに必要な知識自体が足りなくて、知識を身につけることに必死で、「指導すること」に向き合ったことがなかった。
また曲が弾けることが喜びである自分と同じように、他の人も曲が弾ければピアノを続けるだろうと思っていた。
言葉にするとなんて甘く浅はかな考え!
指導力を磨くということは全然やってこなかった。
この状況は明らかに指導力不足だ。
「音楽を競う道具に使わない」「自分らしい演奏」などという耳馴染みの良い言葉を使って、指導力のなさを直視することから逃げていた。
「指導力」を調べると、目標を設定してそれに向かって指導する力のこととある。
私は目標を持つことなく、ただなんとなく目の前の曲をレッスンしている。
その場しのぎで、頼りなく、強さがなく、魅力がなく、ついていこうと思えない指導者だ。
ヴィジョンが曖昧だから多くのことがその場しのぎになっている。
ピアノを弾くことそのものの目標を掲げることができていないから、長期的なスパンでピアノを続ける子が少ない。
つまり上級まで続かない。
教室のヴィジョンを考えた時に、塾やスポーツにはない感性や想像力、心を育てたいという想いはある。そのことについては今研究中でもある。
でも感性や想像力について深掘りをしようというベクトルはすぐに働くが、それをどのように指導しようかという方向性が足りない。
これからピアノ講師として急務なのが、
教室のヴィジョンを明確にして、個々の目標を設定して、それに向けて強く指導していくリーダーショップを磨くこと。
生徒さん同士で仲良くなってお互いに切磋琢磨して、高め合えるような関係性になることを目的に仲良くなるイベントを打ってきたけれど、
期待していることは起きず、ただの仲良しグループができただけ。
目標がない場合はそれでもいいのかもしれない。
でもそれでは、長く続かないし、上達しない。
高め合える関係には到底至っていない。
ヴィジョンなし、目標なし、指導力なしの3ない教室に生徒が集まるはずもない。
保護者は支援者ではあるが友達ではない。
ピアノ教室の生徒さんの親御さんには大変助けられていて、
私のことを信頼して大切なお子様を預けてくださり、
毎月決して安くない会費を払ってくださる。
私の拙い教室運営を暖かく見守ってくださる。
協力を呼び掛ければ、すぐに応じてくれる。
保護者の方は教室を支えてくれている大事な支援者。
そうなるとついつい甘えてしまい、まるで仲間のような意識になってしまう。
迷った時に頼りにしたり、レッスンで凹んだ時には優しい保護者の顔が浮かんだりしている。
でも保護者の方は共同経営者ではない。
感謝はいくらしてもしきれないけれど、そこには一定の線引きがなされるべき。
支援者ってどういうものかしら。
ファンクラブのようなもの?
株主のようなもの?
ある意味でとても厳しい目で見ている。
信頼と期待を寄せてくれて、それが満たされるように精査している。
支援者には選ぶ権利があって、いつでも乗り換えが可能。
ここまで考えて気がついたけど、私の人間関係の築き方に問題が単純で幼稚なのかも。
仲が良くなる=>友達=>ありのままを受け入れてくれる人
という構図以外の人間関係の持ち方しかレパートリーになかった。
仕事関係の人というのは、
考えに共感する=>同じ方向に向かって行動する=>共感ができなくなったら離れる。
こういう人間関係があるんですね。
離れていく人もいれば、ずっと一緒に歩ける人もいる。
向かう方向が自分の夢やヴィジョンだから、離れる人がいても仕方がない。
軸がぶれてしまっていると、
離れていく人にだけ視線がいってしまう。
自分に嘘のない信じた軸(ヴィジョン)を持つことが、強くいれることかな。
など徒然考えている。
それに加えてピアノ関係ではない人間関係も、しっかり保つこともメンタルを健康に保つことに重要といまさら気づいたのでした。
ヴィジョンが曖昧
GW中に部屋の片付けをしていて、ずんと重い気持ちになってしまった。
ピアノ指導についてあれこれと勉強はしてきたし、かなりのお金を出して指導法も学んだ。
それなのに、ここのところ生徒さんは減り、満足のいくレッスンができているとは言い難い。
どうしてそんなことになっているのかしら。
社会の流れに沿って生徒さんのニーズが変わってきているようにも感じるし、
そこに敏感に感じられることをしていないのかもしれない。
誰にでも絶対にあうカリキュラムというのはない。
生徒さん一人一人をちゃんと見ることができていないということか。
学んだ教材や指導法も生徒が一人一人違うのだから、臨機応変さが求められる。
その時に正しく使うことができていないのかもしれない。
そもそも、教室自体の達成目標が曖昧だ。
一人一人に音楽をピアノを楽しんでもらいたいと思う。
音楽が苦しみにならないでほしいという想いがある。
それならばひとりで曲を聴いてyoutubeの演奏動画でも見ていればいいとなってしまう。
教室に通ってもらって、ピアノをやり続けることへの目標がまとまっていない。
どういうヴィジョンを持ってやっているのかというところが明確じゃないからかもしれない。
達成目標、将来へのヴィジョンがあれば、これまで学んだことを取捨選択し生かすことができるかもしれない。
ピアノを通して、何がしたいのか。
これを明確にすることが先決。
ピアノを通してどんな人間を育てたいのか。
どんな社会にしていきたいのか。
これを一刻も早く言語化することが、これまでの学びを無駄にしない方法だなと感じてる。
ピアノの生徒さんのニーズを考える
生徒さんのピアノレッスンに対するニーズって何だろうと考える。
うちの生徒さんは自由人が多いので、
レッスン中に多くの見えてくるものは、
- ゆっくり練習したくない!
- ハノンはめんどくさい!
- 指番号変えたくない!
- 難しいところの抜き出し練習はやだ!
- 弾けるところを速くカッコよく弾きたい!
などつまり「自分のペースを崩したくない!」というのが前面に出てくる。
子どもは目の前の欲求に素直だ。
ゆっくり練習することや、適切な運指で弾くことの重要性をしっかり理解して
できる子は体感では1割にも満たない。
5割ぐらいは、先生に言われ親に言われれば渋々やる。
結果的に効果を感じてくれればこちらとしてはいうことはない。
そのうち必要となれば自主的に取り組むようになるだろうと信じて種子を撒く気分。
そして残りの4割ぐらいが、先ほどの自己主張前面押し出しタイプ。
特に「〇〇したくない!」という不満の声は大きい。
私はこのことが悪いこととは思わない。
自己主張できる子のほうが、上手くいけば想いと主張のあるいい演奏をするとさえ感じる時がある。
「自分のペースを崩したくない」という態度の裏には、自分なりにピアノを楽しんでいる場合が多い。
講師の立場からすれば、「そんなメチャクチャな演奏あるかい!」と言いたくなるものでも、生徒さんとしては楽しんでいるので邪魔されたくないのだろう。
ピアノ練習の「〇〇したくない!」の中には「自分のペースで誰にも邪魔されずに楽しく弾きたい!」のニーズがある。
つまりピアノを楽しんでいる。
ここを汲み取るのって講師も親も大事だと思う。
でも当然だけど「そうかわかった。好きにしな!」とは講師の場合はならない。
なぜならその先に進めば、もっと楽しい!があることを知っているから。
その道案内することこそが講師の仕事だと思っているので。
なので目の前の欲求は一旦置いておいて、その一歩二歩先にある欲求に注目するようにする。
先輩生徒さんが弾いていたあの曲を弾けるようになりたい。
お母さんが好きな曲を弾いて喜ばせたい。
好きな歌手の曲を弾けるようになりたい。
コンクールでいい賞を取りたい。
友達にすごいと思われたい。
など。
これらの目標を作るというのはピアノ教室の大きな課題だと感じる。
他人と比べることやすごいと思われることを目標とすることの負の側面には慎重になる必要があるが。
そして、その一歩二歩先の欲求のさらに先に親御さんの欲求がある。
親御さんは未来を見据えて習い事をチョイスしている方が多いのではないか。
- 将来の財産になるから
- 頭が良くなると聞いたから
- 音楽を楽しむ心を育んでほしいから
- 感性が豊かな子になってほしいから
など、目の前の欲求だけではなく先を見越した欲求を持っている。
たとえ「子どもが音楽が好きそうだったから」という目の前の子ども目線であっても、
「好きなことをさせてあげることが子どもにとっていい成長につながるどだろう」という将来を見据えている。
ピアノ講師としてはそのどのニーズも満たしたい。
ゆっくり弾くなんてやだ!の言葉をするりとかわして、
その奥にあるピアノを楽しんでる瞬間を見つめつつ、
ではこんなのいかが?と気分転換になり、かつ効果のある練習方法を提案できるよう
引き出しをせっせと増やすのです。

私がピアノレッスンでやりたいことは
最近は我が子の習い事などを通して自分の教室の方向性が定まっていく。
うちのピアノ教室がやりたいことは、音楽を通じて学校生活で学ぶ価値観とは異なる新しい価値観を身につけてほしいということだ。
レッスンでは、学校教育に寄り添うような取り組みや、学校らしさを強化することは、気づけばとことん避けてきた。
例えば音楽ノートを作り目標と反省点と練習の記録を自分で書くこと。
うちの教室ではやらない。
これをすれば上達するという主張はわかる。
何かを達成したい時、現状を見える化して言語化し数値化し、計画実行測定改善することが効果的だということはわかる。
音楽ノートを強制することで、自由さと気楽さと、水が流れるような、深い呼吸ができるような本来音楽が持っている魅力そのものが奪われるように感じてならない。
「強いる」という言葉は一つのポイントで、これがどれだけ強力な力を持っているか、軽視されているように感じる。
強いることがじわじわと、しかし確実に「好き」を奪っていくところを何度も目の当たりにした。「好き」が感じられない音楽にはいくら技術的がクリアされていても魅力はない。
目標や練習過程を言語や表にし見える可することは、学校の学習や社会で何か目標を達成しようとする時に必要になる。
それと同じ方法で音楽に取り組むことに違和感を感じる。
私にとって音楽はもっと自由で、流れる水のようなものだ。
さらに学校教育的な側面としては、周りに自分をフィットさせることだ。
集団で生活していたら、どうしても自分のやりたいことよりも周囲に合わせなければいけない時がある。
それは学校に限らず、社会生活では多かれ少なかれあることなので、それ自体はいい経験になる。
でも学校から帰ってきたら、周りではなく自分にフィットする時間を過ごしてほしい。みんながやっているからやるとか、
将来の不安から先回りして今を埋めるとか、
そうではなくて。
今の自分を気持ちよく過ごすための時間の過ごし方を手に入れてほしい。
ピアノはそのために誰かの役に立つことができると思う。
今の子どもたちが大人になって社会に出る時、今よりももっと厳しい社会になっていることが想像できる。
メンタルを健康に保つことが今よりもっと難しくなっていると思う。
社会に合わせて歩んだとしても幸せに暮らせる保証はない。
自分の感性と向き合うことの大切さを強調していきたい。
大切なのは、進度でもテクニックでも、もちろん賞などでもなく、生徒さん自身。

ピアノレッスンに関する親からの要望は、家族関係の現状把握。

「家族療法カウンセラー」という資格を取得しました。
教育学や心理学系の本は好きでよく読んでいたのでそちらの面での真新しいことはなかったけれど、カウンセリングの視点を勉強できたことがよかったです。
これまでだったら、コミュニケーションが「私」X「生徒さん+親」というイメージだったので、たとえば「子どもが全然練習をしない」と親が訴えてくる時、その悩みに共感もするし対策も考えるけれど、どこかで責められているような感じがしていました。
もっと上手くやってくれと言われているように感じでいたし、自分の力不足を実感させられている気がしていました。カスタマーセンターでクレームを言われている気分。
親がピアノの習い事で悩んでいる状況は本当に心苦しいし、
なんとかしたいと本気で思うばかりに
一緒に悩んでなるべく要望に応えたいと思っていました。
でも家族関係カウンセラーの勉強をすると、
生徒さんと親の間にも思い通りにならない関係性があって、
現在進行形で変化していく構築中の関係性であるということが理解することができました。
そういう視点で見ると、
親からの要望や訴えは、親子関係性の現状把握として捉えることができます。
「現状で親はそう考えている。子供のことをそのように捉えている。」というふうに親の要望を捉えます。
子どもの方の現状はおおよそレッスン中に把握できます。
親と子の関係性の状況を把握してから、できることを伝えとなるべく親の要望に応えたいと思っていたときとは、やることが変わります。
先日生徒さんのお母さんから
「〇〇(生徒さん)がどう考えてるのか、先生から聞いてみてください」
というLINEが。
家族療法カウンセラーの勉強をする前だったら
「なぜ私が?お母さんから聞いてほしいなぁ・・・」
とちょっと複雑な気持ちだったと思うけど、
今なら、お母さんの現状を把握できたと思えます。
考えられることは、
- 直接聞きづらい関係性がある
- 踏み込みたくない気持ちが親側にある
- 聞くことで望ましくない状況になったことがある
- めんどくさい
こんなところでしょうか。
だからと言って、親にこうあるべきという評価的な伝え方はしません。
親の訴えが私に直接向かうものではなく、状況説明であると捉えるだけでこちらが感情的になることなく対応できます。
ピアノレッスンをしているけれど、望むのは関わった人たちの幸せなので、ピアノ上達よりも関係性を重視してしまう時がある・・・。
そんなことよりピアノ上達させてください!という人もいるだろうな。
ピアノってほんとに家族関係と切り離すことができないと思う。
ピアノで好きな曲。リズムか歌かイメージか。
娘、私から見ると簡単な、ある1曲が一向に仕上がる気配がない。
前回発表会で弾いた曲より、はるかに簡単に見える。
ずっと同じ曲をやってばかりでも飽きるよな・・・
でも仕上がらないまま丸にするのも違う・・・
と、悩みつつ、気晴らしに、ブルグミュラーのアラベスクをちょっとやってみる?と提案した。
レベルとしてはまだまだ先だと思っていた。
今ぶつかっている曲は、アラベスクよりかなり手前。
それが、楽譜を開いたらサラサラと譜読みをして、あっという間に両手で弾けるようになった。
びっくり!!!
どうしてだろう?
なんでこの曲こんなに弾けるようになったの?と聞いた時の娘の答えが。
「リズムがあって、速い曲で、有名で、憧れてた曲だから弾ける!」と。
憧れって譜読みをスムーズにもするのね。憧れパワーはすごい。
「でも、この前発表会で弾いた曲は、ゆったりした曲で、速くも有名でもないけど、でもお気に入りだったよね?」
と聞いてみると、
「あの曲は、イメージがあるっていうか、場面が想像できるから好き」
なるほど〜〜〜
今つまずいている曲は、小学校の音楽の授業でも習う有名な歌の曲。
右手でメロディを演奏して、左手で主要三和音のコード伴奏をする。
有名な歌だし、その歌を娘も好きだし、気に入って弾いてくれるだろうという当初の私の目論見は外れて一向に進まない。
娘は歌が好きで、歌心もある。
歌は、声を出して歌える。
一方の私は、歌があまり上手じゃない。
歌は、歌うよりピアノで弾いた方が気分がいい。
この違いは大きいのかも。
私がピアノを弾くのは歌う代わりという部分が大いにある。
歌えないからピアノを弾いている。
その理由が、歌える娘には当てはまらない。
だからこそ、歌の曲は、いくら有名でも、好きな曲でも、ピアノ弾いてもつまらない。
つまらないから気持ちが入らないから仕上がらない。
ピアノで弾くなら、
歌では表せないリズムの刻みや、
和音の響きで作るイメージや画像の方がモチベーションがわく。
「知っている曲が弾けることは楽しい!」は、必ずしもどんな曲にもどんな人にもあてはまるわけではないという当たり前のことを目の当たりにできた。
そして、ピアノ曲の持つ魅力をより細分化できた気がして、いい気づきをもらった出来事だった。
娘は相変わらずいいモニターです。
いつもありがとう。
何度も思い知らされるけど、
ピアノの成長も、ほんっっっっっとに、個人差がある。
その子による。
ほんと、その子による!!
