音楽には文法があって、文法には必ず文化的な背景があって、いわゆる西洋クラシック音楽を聞くときには文化的な背景を丸ごと取り入れている。
そこにはいつも緊張と緩和からくる物語がある。機能和声でできている音楽で緊張も緩和もない、起承転結も物語もないものはない。そういう文脈で音楽が流れることに「わかる」という気持ちが発動して、安心して音楽に身を委ねることができる。
機能和声から外れると途端に「わからない」になって音楽に身を委ねることが難しくなる。
その方法がわからなくなる。
良くも悪くも、私は機能和声という「わかる」という安心感の中でしか音楽を聴いていない。
そして緊張と緩和が心地よいという振る舞いを強化していく。
バッハや、モーツァルトやベートーヴェンやショパンが生きていた時代は、地動説が唱えられて間もなく、大航海時代で、植民地時代で、ウィルスが存在していることを知らない時代。
いまの私とは全く違う常識を生きている人たちだ。
そこには私たちを惹きつける魅力もあるけれど、逆に違和感を感じるものもある。
違和感の一つには、他者と区別排除し完全に独立た孤高の作品を目指そうとしているように見えることだ。
科学進歩とともに完全に独立した生き物など存在しないし人間もまたその生き物のうちのひとつだということは明らかになったし、私もその常識の中に今を生きている。
その「今の暮らしではない感じ」が魅力的であるのと同時に、それを元にレッスンをしていることに関して、社会性のなさを感じる。
ひとりよがりの、独り言の域を出ないのではないか、という感覚。
西洋クラシックの「良さ」は確かにあり、その魅力は大前提だとして「もっと広める」ということの限界を感じる。
今を生きる人たちにとって、距離があることも十分にわかる。
とは言えバッハもベートーヴェンも確かに筆舌にし難い感動がある。
だからと言ってそれを絶対的なものだとして教えることに確かな意味を見出せない。
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学生の時に音楽史とある程度の和声を勉強して、だからこそ面白く感じる音楽は増えた。学ぶことから楽しめる音楽がある。
私が純粋に心から「いい」と感じて選んでいる音楽も、自分の知識とこれまでの環境で培われた感性が選んでいる。いいなと思う音楽は今の所「安心する」から出ない。
プレイリストから流れて来るヒットソングに、「なんだこれ?」と刺激を感じるものでも、基本的には安心感があって、そこに少しのスパイスが振りかけられているようでしかない。自分にインストールされているものは変わらない。
新しいシステムをインストールしなければ、永遠にその安心とスパイスより外に出ることはないのではないかしら?
音楽は楽しむから音楽なんだよ!と言っていると、ただただ既成のシステムに従う以上のことにはならないのかも、などと思う。
つまりピアノを教える立場として、もっと音楽を広く知る必要があるということ。
音楽に携わり生業としている以上の責任であるようにも感じる。