これまでの私の体感では、ピアノの練習を自分からすすんで取り組む子は約1割、
残りの9割がピアノの好きな面もあるけれど、練習は億劫というとまぜこぜの状況というのがここのことろ続いている。
「ピアノ楽しい」と「練習が億劫」の割合は時と場合と人により様々ではあるけれど。
ピアノの練習を自主的に取り組む1割の子が続けばいいのではないか?と思った時期もなかったわけではないけれど、自分自身を振り返ってみると残りの9割に完全に属している。
練習は、怒られるのがイヤで、時には弾けるようになるのが嬉しくて、また時にはイヤなことを忘れられるから、という理由でやっていた。
そして気づけばピアノが他には変えがたい存在になっていた。
毎回の練習を、喜びをもって前向きに取り組んでいた分けでは決してない。
その9割の中のさらに「やる気」が底辺の「どうしてもイヤだ」という子が時々出てくる。
その場合の多くは親子関係から来ているように感じる。
少なくとも私のピアノ教室ではそうだ。
はじめのうちは目を輝かせていたのに、ある時から雲行きが怪しくなり、表情が変わる。
強制される、比べられる、けなされる、怒られる、認めてもらえない、など、ピアノを通して感じる不快が拒絶につながる。
親の要求が高すぎるときに起こる現象だ。
家族の中にピアノをある程度やっている人がいる場合に起こりやすい。
「ピアノの練習とはこういうもの」
「いい演奏はこういうもの」
という固定概念があるために、どうしても理想が高くなる。
親がピアノをやっていなかった場合でも、周りに流されやすくネットやテレビの情報で、「ピアノの練習は1日〇〇時間」などと目にするとそれを鵜呑みにするタイプも危険だ。
目の前の子どもの状況を無視して、入って来た情報に照らし合わせると子どもは辛くなってしまう。
ネットやテレビで目にするピアニストたちは、やる気上位1割の中のさらに希少な上位に属する本当に一握りの人たちだ。
そういう親に限って、「プロにするつもりはないです。楽しんでもらえれば。」といったりして・・・。
「楽しい」と「億劫」がまぜこぜの状況で行きつ戻りつしながら成長していき少しずつ音楽の奥深さに足を踏み入れることができる。
そうやって成長していく中で、ピアノを弾き続ける事が自分にはなくてはならない事になるかもしれないし、別の音楽の関わりを見つけるかもしれない。
少なくとも、ピアノをやっていたという経験は生かされると思う。
何が言いたいかというと、どうか、ピアノを習い始めたら
子どもを励まし続けて欲しいと言いう事です。
けなしたり、他の子と比べたり、しないで欲しいです。
子どもの視点に立たずに「標準」を押し付けないで欲しいです。
というピアノの先生のつぶやきです・・・。