ピアノは何のために習うのか。
なぜラクで楽しいことだけでは飽き足らず、ときに辛い練習をしようとするのか。
または、レッスンではなぜそれを強いなければならないのか。
脳を鍛える、頭が良くなる、などピアノを習う効能とされるものは多いが、それ自体がピアノを弾く目的ではない。
明確に答えが出せないまま、それでも魅了されてピアノを続けて来た身として、ピアノを勧めたいという漠然とした気持ちはある。みんなやったらいいよ、と思うけれど、楽しいばかりではないことも身にしみている。
また、すでに身近な音楽とともにピアノを楽しんでいる人に、レッスンで教えられることなんてあるのだろうか、と思う時がある。音楽に優劣はないし、すでに自分の中の音楽を知っている人に「先生」として与えられることなんてないのではないか。
そんなモヤモヤした思いを頭の片隅に持ちながら読んだ「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎著)は、ピアノレッスンに対する所在無さを解消してくれた。
何事も楽しむためには訓練や勉強が必要だ。
ピアノを触れば音が鳴るお手頃な楽器として楽しんでいた子どもの時よりも、ピアノを弾くスキルを磨き、楽器や曲の背景、歴史を知った今の方が深く楽しむことができる。
触って鳴らしていた頃ももちろん楽しかった。
でもそこにずっと止まっていたら飽きてしまっていたかもしれない。
今だから面白く聴くことができる曲たちの魅力に気がつかなかったかもしれない。
私はピアノのレッスンに通って先生に導かれ、興味を広げていく形で今の奥深い楽しさを知った。
深く知り、楽しむことは得体の知れない魅力がある。
しかし、「楽しむことだけでは稼げないではないか」と言われると返す言葉がなかった。
でもこの本を読んでから思うのは、深く楽しむことは、よく生きることそのものだ。
私たちの時間をどのように使うのか、つまりはどのように生きるのかを考えた時に「楽しむ」ということを深く出来ることほど、強力なスキルはない。
それはお金を持って消費することではたどり着けない「贅沢」を得ることができる。
ピアノのレッスンに通うことは生きることそのものに直結する。
頭がよくなる、脳を鍛えることができる、そんな売り文句は必要ない。
ピアノそのものに生きることに直結する「楽しさ」が潜んでいる。
みんな、ピアノやろうよー☺️