ピアノは、鍵盤を沈めれば音が鳴る。
実に単純で、簡単なことだ。
音を鳴らすことならば、赤ちゃんにも猫にもできる。
猫が鍵盤の上を歩いた音が、意外に音楽的だったりして。
そこから始まって、ピアノの表現力は無限に広がり、表現の数だけテクニックがある。
ピアノのテクニックは無限だ。
ピアノを習うということは、ピアノを使った表現を学ぶということ。
同時にそのときに必要なテクニックを学ぶということ。
そう思うと、ピアノで学ぶことは無限にある。
ピアノのテクニックが詰まった教則本をみると、必要な技術や知識はこうもたくさんあるのかと驚く。
それは、「ピアノを弾く時に身につける技術と知識」ではなく、「ある曲を表現するときに必要となる知識と技術」である。
ここは大きな違いで、「ピアノを弾く」ということはそんなに難しいことではない。猫にもできる。
「曲を表現する」という段階で、はじめてテクニックが必要になる。
クラシックピアノを習うということは、クラシックピアノの曲を弾けるようになることでもある。
そこを目指して、必要な技術と知識を身につけていく。
大切なのは、順番を間違えないことだ。
曲があり、テクニックがある。
ピアノの先生としては、奥深い曲のテクニックの奥行きを知っているから、そこにたどり着けるように、先回りして効率よく学んでもらいたいと思う。
変な癖をつけないように。
変な音を鳴らさないように。
でも、奥深い曲の奥深いテクニックを知る前の人にとって、その先回りはただの「複雑さ」になってはいないか?
「難しさ」「堅苦しさ」になってはいないか?
奏でる喜びを奪うことになってはいないか?
もちろん「楽しい楽しい」だけが正解だとは思わないけれど。
『「奥深さを知ってもらいたい」というのは専門家のエゴ』と言っていたのは確か百獣の王、武井壮・・・
過剰な先回りも考えものだなぁ、と思う。
つまりはバランスか。
猫でも鳴らせる「気軽さ」に、興味がわくような「奥深さ」をチラつかせるバランス力。
順序と段階を間違えないテクニックの提示。
それが上手い先生がいい先生なんだろうな。
猫、かわいい・・・