ピアノの発表会やコンクールで、本人のレベルを明らかに超えているようなものを、親子で必死になって泣きながら取り組むことには、どのような価値があるのだろう。
本番当日に満足のいく演奏ができたら、やはりやってよかったと、充実した気持ちになるんだろうか。
無理そうな壁を乗り越えることに、成長を感じることができるかもしれないけれど、
親が半分引っ張りあげて登った山には、本人にはその山を登頂したといえるレベルの筋力はつかないことにならないか?
確かに、指は動き、たくさんの音を覚えて弾くことはできたかもしれないけれど、楽譜を自力で読んで身につけて行くという筋力が付いていない。
楽譜を読むことにまたこだわってしまっているけれど、
問題は「自力ではない」というところだ。
自力とは言えないほどのサポートを受けてできたことは、どれほどの価値があるのだろう?
ピアノの場合、自分で取り組んで弾こうとすると簡単な曲になるということが起きて、結局その後もずっと、親に引っ張り上げてもらわないといけないピアノの向き合い方が定着してしまう。
本人は、弾ける曲と読める曲のギャップをどのように処理するのだろう。
結局は「サポート」をどこまでとするかという問題であるし、
「本人の意思」の問題でもある。
本人の意思を尊重したサポートなのか、
本人の意思を無視したサポートなのか。
そのサポートは、本人の範囲に入り込んでしまっているのか、
もしくは本人の領域には踏み込まずにいるのか。
自分の親はそのようなスタンスだったことがないので、親に引っ張り上げてもらいながら次のステージに行くことを成長過程で経験して育った方は、大人になってどのように感じているのだろうか?
感謝しているのだろうか?
自分の子どもにもそのようにしよう、と思うのかな。
とは言え、子ども時代の習い事でサポートが皆無なんてことはない(月謝を払ってもらっていることがそもそもサポートしてもらっている)ので、やはり程度と範囲の問題か。
ピアノの自宅練習のことを考えているといつも親子関係に行き当たる。
なるべくピアノのことは親は外野から見守っていてもらいたいと思うけれど、外野がどこなのか、親が育ってきた環境まで影響するので、本当に難しい。